劇場版「僕のヒーローアカデミア」見てきました

こんばんは。お前技術屋じゃないんかい。これ技術ブログなんじゃないんかい。な浅葱です。

本日――というか昨日、劇場版「僕のヒーローアカデミア」見てきました。 あんまり漫画とかいっぱい読む方じゃないんですが、僕のヒーローアカデミアと、もう終わっちゃいましたがアイアムアヒーローはある分は全巻揃えました。特にヒロアカは読む度1話ごと号泣する程度には好きです。あと「映像研には手を出すな!」非常におすすめです。

そんな感じですが、今回運よく公開初日である8月3日金曜日、友人がチケットを取ってくれたので一緒に行ってきました。

普段は映画の感想とかは吐き捨てて終わりなのですが、ヒロアカ好きなので、ちょっと興味でブログ書くことにしました。

色々あって辛口な感じになってます。そのうえネタバレもあるので、読む際はご注意ください。 一応、映画見に行ってから読んでいただくのを推奨、ということで。

点数

30/100

ストーリー概要(後々話に書かあってくるのでフルで書いてます)

時系列的には林間合宿の前。なのでアニメリアルタイムで追ってる人にとっては1年近く前の話と半年以上前の話との間位になる。当然、シュートスタイルとかは出てこないので注意。

オールマイトの同伴として個性研究の最先端『人工都市 I・アイランド』にやってきた緑谷出久。鼻息荒くI・アイランドにやってきた彼を出迎えたのは、エキスポの近づいたお祭り的な雰囲気と、オールマイトを慕う数多くのファンだった。

ファンの皆様にサインを書いたオールマイトと出久の二人は、オールマイトを「マイトおじさま」と呼ぶ17歳の少女メリッサ・シールドに会い、彼女の父親であり、オールマイトの親友でもあるデヴィット・シールドの元へと向かう。

なんやかんやあってメリッサにI・アイランドや、開催予定であるエキスポのパビリオンを案内してもらっていた出久は、その道中で数人のクラスメート(お茶子・八百万・耳郎・飯田・峰田・上鳴・爆豪・切島・轟)に会う。どうやら彼らも招待されたりバイトに来たりで、I・アイランドに来ていたようだ(なお他のクラスメートも島内の別区域にいる模様)。

こうして島内で学友と合流した出久は、メリッサ・クラスメートとともにレセプションパーティーに参加することとなる。 しかし、飯田が決めた18時半集合へと遅れてしまった彼らはパーティに参加し遅れ、運よくパーティ会場を襲撃したヴィランから逃れることになる。

ヴィランは用意周到にもパーティ襲撃と同時に島のセキュリティシステムを掌握。すべての在島者の身動きを封じる。

出久たちはなんとかその監視を潜り抜けセキュリティシステムの奪還を目指すが、その目前、コントロールタワーの最上階までたどり着いた出久とメリッサが見たのは、何らかの器具を盗み出すデヴィットとその助手。なんとパーティ襲撃の首謀者はデヴィットだった。その目的は過去に凍結された研究である「個性増幅装置」の奪還。そして力を失いつつあるオールマイトへの使用だという。

デヴィットはすべて芝居で、オールマイトに装置を使えさえすれば自首すること、ヴィランは偽物だということを説明するが、そこに現れたヴィランはデヴィットの助手を攻撃し、デヴィットもろとも装置を奪い去っていった。

それからなんやかんや辛くもヴィランを倒しかけるも、ヴィランが個性増幅装置を使用。強化されたヴィランの個性「金属操作」の前に、オールマイトですら太刀打ちできなくなってしまった。そのうえ何故かヴィランのバックには「オール・フォー・ワン」がいて、ヴィランは「筋力強化」の個性も与えられているという。

装置の力でヴィランのもう1つの個性「筋力強化」も強化され、なす術なしかと思われたが、出久とオールマイトは共同必殺技「ダブル・デトロイト・スマッシュ」を編み出し、ヴィランを打ち倒したのだった。

(あとは映画で)

感想

端的な感想としては、アニメスペシャルを劇場で見ている感じ、と言ったところだろうか。

点数にも30点と書いたが、映画としての総合的な評価を与えるのは難しいと思う。

良かった点

とはいえ、何も上げずただ面白くないというのも面白くないので、よかったなと思う点を書いていきたい。

  • まず、全体を通して、作画の質は非常に良かったと思う。

    時折、非常に原作寄りな絵(峰田とか上鳴とか)があったりと芸が細かい一方、戦闘は派手で豪快。光の使い方もきれいで、普段のヒロアカでは味わえない楽しさがあった。

  • 背景美術や構造物の作画も良く、ラストのシーンでヴィランが頑張っているシーンなんかは結構すごかった。

  • 後、警備ロボットのデザインがすごく好きで、ああいうのある世界って幸せだよな~~とか思ってます。彼らになら撃たれてもいい。

  • また3DCGも質・作画との親和性ともに非常に高く、手抜きCG感のない良い作品に仕上がっていたように思う。

  • それと個人的には「私が行く!」が非常に良かったなと思う。

    「私が来た!」は作中何度も登場する(本映画でも何度か言った)が、行くと宣言するオールマイトはなかなか貴重じゃないだろうか。

  • オールマイトつながりで、アメリカ時代のオールマイトが見れたのも良かった。口上に気を取られるあまりヴィランを逃がす彼など、現在時間では絶対に見られないだろうし、これも貴重だ。

  • それ以外だったのが、ゲスト声優違和感なかった! というところです。 ゴジラはもちろん、志田未来さんも、生瀬勝久さんもすごく役にマッチしていて良い声でした。 映画に行く前は「またゲスト声優か~」と少し暗い気持ちだったのですが、実際見始めたら気にならないどころか、家に帰ってこの文章を書き出すまで忘れていたくらいです。

  • 芸人も一瞬しか出てなかったので良かったです。

悪かった点

さあ良かった点は書いたが、今度は悪かった点だ。

音響

まずだが、個人的に一番気になったのは音響。

普通、映画の音響ってそれ用にいろいろと整えてくるものだと思うのだけど、本作品は恐らくそういったことは何もしていない。普段通りのヒロアカだ。普段テレビで見ている音がそのまま大きくなった感じの音だ。

声優の呼吸ひとつまで再現するような繊細な音遣いもなければ、

激しい爆発シーンの腹に響くような重低音が入っていることもなければ、

耳をつんざくような金属の高温も入っていない。

ただ、その代わりに、序盤からクライマックスに向けて徐々に全体ボリュームが上がっていくという仕掛けがある。序盤は「お、なんか物足りないな?」という感じで音のキレがないとか、映画特有のあの呼気まで入った感じの音声じゃないんだなとか思う程度だが、映画が終わるころには「お、なんか物足りないな?でも耳は痛いな!」という感じになっている。

もちろん、どんな映画だって盛り上がっているシーンは全体的にボリュームアップはするだろうが、ただ音量を上げるだけじゃなく、全体でバランスをとりつついかに迫力良く聞かせるか、作中の空気感を視聴者に伝えるかという音作りのような要素が入ってくる。

本作には、あまりそういったものは感じられない。映画を見終わって、しばらく周りの音全部が遠く感じるような、そんな経験は何度かあるが、耳鳴りがするような状態になるのは珍しいと思う。間違って迷い込んでしまったデスメタルのライブ会場から帰ってきた時以来だ。

映画で一番最初に観客を作品に引きずり込むのは何か、私見ではあるが、音響だと、私は思う。

映画の冒頭1秒で観客が最も多く情報をたたきつけられるのは、シナリオでも、映像美でも、作画でも、死でも、愛でも、友情でも成長でも進化でも開花でも何でもなく、音だ。 音が観客を引きずり込む。

そういう意味で、私は最初の10秒でこの映画を見限ってしまった部分はある。アニメスペシャルだな、と直感してしまった部分はある。コナンに30分枠もらったやつだ、みたいな。それをさらに30分足したやつだ。扱いとしては32話の、「それぞれの職場体験」と同じだな、と。

なので、この後述べるストーリ全般に対するコメントはあまり素直なまなざしではかけていないかもしれない。

その点にはご留意いただきたい。

脚本

そしてストーリーだーが、これは、なんか、一言で言うと「とっちらかってる」というような、そんな感じだった。

  • まず(ヒロアカに対して言うことじゃないが)キャラ多すぎ。

    • いつものメンバーだけで11人(オールマイト+出久+クラス人)。
    • そしてメリッサ+デヴィット+デヴィットの助手+ヴィランヴィランの部下(数名)。
    • 名前付きキャラだけで15人を超え、そのうち映画初キャラは4人。
    • 出久達と対峙するヴィランの部下は目立つやつだけでも4人いるので、メインで動く人物が合計で20人近くいることになる。
    • しかもさらに、本編に絡んでこない学友たちのカットがちょいちょい入るのでそれにも時間と集中を奪われる。

    正直言って、キャラだけですでに薄まりすぎなのだ。

    ヒロアカは名前のあるキャラはどのキャラも丁寧に作られていて、各々個性が強く、1人1人がみな、誰かに好かれる人格を持っている。

    ついつい出してあげたくなる気持ち、活躍してもらいたくなる気持ちはわからないのではないのだが、それにしては尺とか、見せ方とか、足りないものが多かったように感じる。

  • そしてもって、さらにとっちらかりを増大させているのが、テーマ性の一貫のなさである。 単純に列挙するだけで

    • 出久←→オールマイト=>師弟・あるいはそれを超えた関係の絆
    • メリッサ←→デヴィット=>親子愛
    • 出久←→メリッサ=>新たな友情
    • オールマイト←→デヴィット=>友情・信頼・進歩性・正しさとは
    • 出久←→クラスメート=>友情・信頼・ヒーロー性の確認
    • 出久←→ヴィラン=>ヒーローとヴィランの対峙・ヒーローとは・悪とは
    • デヴィット←→ヴィラン=>悪とは・正しさとは・希望とは

    これくらいはある。これは私が映画を見て無理くり「こういうことが言えるだろう」と抜き出したものではない。多少なれ、作中でほのめかされたメッセージだ。作中で、これらの関係についてセリフや描写などで言及されたものである。

    当たり前だが、これを全部同程度の重さでやろうとすれば、自然と作品から視聴者に訴えかけるメッセージとしては薄れる。作品に込めるメッセージが1つでなければならない決まりはないが、特に深い理由がないなら絞った方がいい。

    あれもこれもと様々に提示され、その全てに答えを見いだせるほど、1時間30分という時間は長くはない。

    ちなみにこの

    • オールマイト←→デヴィット間にある「進歩性」「正しさとは」とか
    • デヴィット←→ヴィラン=>悪とは・正しさとは・希望とは

    などという項目は

    デヴィットが本作の(黒幕ではないにしろ)主犯格であるという設定により発生するメッセージなのだが、ここら辺はもう取っ払えたんじゃないのか、という気がする。 デヴィットは被害者でよかったじゃないか…。正直父親であり科学者・オールマイトの親友・オールマイトの個性力減少を憂いているまで来ると新犯人説は容易に想像がつくし、衝撃に薄い。そのうえ作中のただでさえ薄まっている時間を「どうしてこんなことを」とか「パパがこんなことするなんて」とかでさらに薄めるのがもったいない。

  • 展開が結構だるい 特にラストシーン。

それぞれのキャラの活躍を見せたいからなのか?

出久頑張る→やられる→出久頑張る→やられる→出久頑張る→やられる→オールマイト来て・頑張る→やられる→クラスメート来て・頑張る→だめっぽい→出久頑張る→オールマイト頑張る→やられる→…

みたいになってて(正確には忘れた)、一進一退な、ある意味でリアリティのある戦闘を見せたいのかもしれない、というのはわかったのだが、しかしこれはだるい。

「やられる」のところが本当にやられていて、一回確実に動きを止められるので、結果として一々戦闘の流れがぶった切られていて、イマイチ戦闘に気持ちが乗らないのだ。

前述したように様々な理由で尺も圧迫されていて、後述するがただでさえ戦闘くらいしか見せ場がなくなっているのに、非常にもったいない。

  • メッセージ性が薄いせいでキャラ萌えにしか見えなくなってくる 視聴中何度か思ったのは「ヒロアカはそこじゃねーんだよ!」というようなことである。

何分、ヒロアカとは泣かせてくる話である。特に原作が今ちょうど(筆者は単行本派)、どシリアスな話にひと段落付けところだから、というのもあるが、いやしかしヒロアカは第1話から、強烈なメッセージ性で、その強いパンチ力でただでさえ弱い筆者の涙腺をぼこぼこにぶん殴ってくる話だった。

ヒロアカの真の魅力は、魅力あるキャラと、その取り巻く環境と、個性豊かな登場人物たちによる「正真正銘の人生」なのである。

「どんなに困ってる人でも笑顔で助けちゃうんだよ…超カッコイイヒーローさ 僕もなれるかなあ」

「”個性”がなくてもヒーローはできますか!?」
「プロはいつだって命懸けだよ。「”個性”がなくとも成り立つ」とはとてもじゃないがあ…あ口にできないね」

「夢見るのは悪いことじゃない だが…相応に現実も見なくてはな」

「泣くな!わかってたろ!? 現実さ…わかってたから…必死こいてたんじゃないか」

(「僕のヒーローアカデミア」第1巻 より引用)

抜粋したのはどれも出久君と、それを諭すオールマイトのセリフだが、これだけで私のようなド平凡でド低能なド凡人は涙してしまうのだ。出久君の気持ちがクソほど理解できてしまうので、ゴミみたいにわんわん泣くのである(そしてこの後自分をいじめる張本人を助けに捨て身で飛び込む出久君をみてまた泣き、「君はヒーローになれる」で首を吊りたくなるくらい泣くのだ。堀越先生は日本中の涙を枯渇させて何をするつもりなのか)。

しかし、本作からは、そういった登場人物たちの「人間味」があまり感じられない。

それもそうだろう、彼らはみな、1時間30分という限られた時間で「島に行き」「事件が起きるまでワイワイし」「事件が起きたら解決に向かい」「大けがしながらヴィランを倒す」「いい感じにしめる」という大仕事をしているのだから、人間がどうとか、人生がどうとか、やっている暇がないのだ。

それぞれ、与えられた役割の1つとして、涙を流してみたり、叫んでみたり、背中を合わせて格好良く戦ったりはするが、それらはあくまで与えられた役割にすぎない。

今回この島で起きた事件を再現するために、台本に沿って動いているだけなのだ。

涙を流すとか、感動するとか、そういったものは作品を脳みそに流し込む過程で脳と作品が化学反応して起きる現象的なものだと思っているので、あくまでそれを目的に作品に触れるわけではないが、だが、それがヒロアカである以上、どうしてもそれを期待してしまうところがある。「ああまたきっと出久君は誰かを助けてくれるはずだ」「きっと何かメッセージをくれるに違いない」そう思ってしまう。

しかし、本作にはそういった要素はあまりない。ばーんてしてわーってなってどーんてして、敵を倒して、目の前の困っている人を倒したら、あの夏の再現劇は終了である。

もしかしたら本作の制作人の誰かは意外に思うかもしれないが、私がヒロアカに求めている最たる部分は、そういうものじゃない。派手な映像とか、戦いとか、そういうのも好きだが、そういうのは他でも見れる。ヒロアカでも見ているし、ヒロアカからそれがなくなってしまったら寂しいが、そこだけじゃあない。それだけじゃないんですよ。

また、同様に同室に属する問題だが、『無個性の少女』とか『あの方』とかちょっと雑に詰め込み過ぎなんじゃないですかね。 話が逆転するようで申し訳ないのですが、メリッサが無個性なのを

『私無個性だから』
『なんかすみません。ほかのみんなが持っているものを持っていないのってつらいですよね』
『私にはもっと身近に目標がいたから』

で終わらせていいんですかね? そこもっと掘らなくていいの? 思い付きでこの設定入れた?

同じく、あの方が出てくるんならその伏線とか最初の方にちょろっと張っておいた方がいいんじゃないですかね?

もっと序盤で個性複数持ちの伏線とか、ちょろっと入れられたのでは?

あの方ぽっと出すぎやしませんかね? あと時系列的に林間合宿の前なんですよね? 全くないってわけじゃないですが、そのタイミングであの方がちょっかい仕掛けてくるかな…? とか。

  • 敵甘っちょろすぎ問題

なんやかんやあって、こういった映画には王道的な「ここは俺に任せて先に行け」的な展開があるのですが、これがまた、「あーこれ捕まっても殺されたりはしねーな」というのが何となく読めてしまって面白くないんです。

ヴィランが最初に「パーティ会場の人間は殺すな」的な発言をするのですが、それとは別に出久君たちは島のセキュリティシステムの一部であるところのガードロボットに追い回されるのですが、こいつら

「銃器は撃ってこない」
「使うのは捕縛用の縄」
「アホになった上鳴を追い込むが囲むだけ」

など、恐らく侵入者は殺さず捕らえる設計なんだなーという感じがして、

「ここは私たちが抑えるから」
「でもそれじゃ君たちが…」

とか

「個性を解除して逃げて!」
「それはできひん、みんなを助けられんくなる!」

とかいった展開が陳腐に聞こえてきます。

先も書いた通り、最近原作の方がかなりシリアスになってきているので、「殺されないとわかっている」状態で出久君たちが真面目に心配しているのがちょっと変なんですよね。

(いうて捕まるだけやしそこまでシリアスではないのでは…) みたいな。

  • 2人の英雄の「2人」って誰? 問題

私はこれ映画終わってから一緒に見ていた友人に言われるまで知らなかったのですが、本作は副題が「2人の英雄」となっているそうですね。

思えば、冒頭にエンディングと、大海原には似合わない2羽のワシが会場を仲睦まじく飛んでいました。私が知らないだけで、ワシ=海なのでしょうか? 私、気になります。

さてそれはいいとして、映画本編における「2人の英雄とは誰か?」という問題が本作にはあります。というのも、この「2人の英雄」が誰を指しているのか、本編中では明示がなく、ちょっともやっとします。

  • 可能性1. オールマイトと出久 作中ラスト、オールマイトとデクは2人で「ダブル・デトロイト・スマッシュ」をヴィランに向けて放ち、これを首謀者であるところのデヴィットがぼんやりと眺めているシーンがありました。

    可能性として、この時デヴィットから見た2人が、オールマイトとその弟子という2人の英雄に見えたという可能性があります。

  • 可能性2. オールマイトとデヴィット 冒頭、オールマイトアメリカ時代が描かれますが、この時オールマイトの相棒は、若き日のデヴィットでした。あまりやつれている感じのない、オールバックの気の良さそうな青年です。

    出久やメリッサ、当時の2人を知る人であれば彼らのことを「相棒同士の2人の英雄」と認識していたでしょう。

  • 可能性3. 出久とメリッサ これはこの2人が作中どうだったかというより、オールマイトやデヴィットから見て「新たな2人の英雄(を育てた)」という視点もありうるかなという感じです。

  • 可能性4. ワシ 冒頭とエンディングで空を飛んでいた2羽のワシが実は2人組のワシに変身できるヒーローであった可能性です。ワシが飛行機に乗らないといけないような場所にいる島の付近に普通に飛んでくるとは思えないので、島から飛び立ち、パトロールをしていたヒーローという可能性は無きにしも非ずでしょう。

ぶっちゃけわからないのですが、作中に一度も「2人の英雄」という言葉が示唆されないので、たぶん「誰かから見た誰か2人」ということになるのかなと思います。

私としては説5「出久から見たオールマイトとデヴィット、デヴィットから見たオールマイトと出久、オールマイトから見た出久とメリッサ」説を押していこうと思います。

  • 島に来てたけど本編絡まなかったクラスメート、いる必要あった? 問題 本編に絡まなかったクラスメート、じゃあ作中島で何やってたかっていうと、部屋でゴロゴロしてたんですね。みんな。

その行動をとがめる気はないのですが、お話としては彼らを島に呼ぶ必要あったか? というのは疑問です。

何もしないなら家にいてもらえばいいし、島にいるならガードロボットの暴走現場に出くわして、市民を守りながらじりじりと追い詰められていく…みたいな描写があっても良かったのでは? って気がします。

大したことじゃないのですが、これでみんなが「いざというときに何もしないやつ」みたいに思われるとちょっと不憫ですよね。

最後に

まあちょっと書きすぎた感はありますが、かように本作品の脚本にはちょっと「?」が多いです。あげればキリないかなって気がします。 正直個人的な感想としては、もうちょっと何とかしてくれという気持ちが強いです。 見に行って失敗だったとは思いませんし、普段隣室への音漏れに気を使いながら極力音量を下げて視聴しているヒロアカを、大画面・大音響で見れたという事実は単純に嬉しいですし、作画は非常に良かったので、推しのキャラがメインで動いているぞ! って人は積極的に劇場に行くべきかと思います。 もし、映画を見るからにはやはりある程度のクオリティがあって、1夏の思い出になるようなものがいい、っていう方は違う何かでもよいかもしれません。

あ、それと、入場得点でもらえる小冊子、めっちゃよかったです。 ただ、映画の設定とか結構書いてあるので読むときは注意してね(ってこの文章ここまで読んだ人に言うことじゃないか)